宮家御用達の手打蕎麦を六年かけてご家庭用の乾麺として再現する事に成功致しました
■ 2025年11月29日

宮家・延暦寺御用達 手打ち鶴屋の喜八そば
織田信長の焼き討ち後、この地に埋もれていたお地蔵様を皆で綺麗にして大切にずっとこの地で守るようにと当家では言い伝えられています。旅籠屋鶴屋の喜八が僧侶になり賄い方をしながら蕎麦切りの技を習得したと伝えられています。蕎麦屋としての創業は蕎麦を扱ってからとの事ですので江戸時代の享保元年です。その後も坂本延暦寺のお山の上まで麓からその蕎麦やつゆを担いで上げに行くという仕事は草履に石が入ってきても重さに耐えながらとても大変な事だったと伝わっております。宮家との関わりの強い延暦寺や日吉大社の御用をしていた関係で昭和天皇ご崩御までご縁を頂く事が出来ました。産まれてすぐに母親が亡くなった当家の八代目は、寝たきりの父親をみながら早朝からの仕入れなどで小学校にも行けずに親の代わりに人手不足の家業を手伝いながら育ち、皇居の敷地に出した店との行き来の中、思いや気持ちを込めた手打ちの練習を積んだと言います。昔は今のような交通手段が無く、幼い時は不滅の法灯の油の奉納にも祖父に付き添い、麓からお山の上まで行く事は彼にとってとても大変だったそうです。幼少期から大変な思いで店の歴史を繋ぐ事に尽力を注いできた八代目ですが、東京で昭和天皇にお出しする江戸時代伝来の二八蕎麦の手打ちに携わる事が出来た時、これまでの苦しみが一気に喜びへと変わったそう。「それが日本人というものだな」と申しておりました。その時の思いや心を毎日継続して二八の蕎麦に人の手で打ち込み、見える形にし続けるという継続を坂本という人手不足の場所で、機械に頼らず再現し続けて来れた事はまさに私達にとってこの地での奇跡でした。世界の片隅坂本で、昔から先代達が忘己利他の精神で一隅を照らしながら繋いで来たからには最終、私達は世界が明るくなるまで頑張らないといけないのです。人手不足でも機械に頼らず手打で売り切れなしで強行するには?と未だに「明日はまた人いないけれど、どう手打で乗り越える?」と毎日毎日いつまで経っても次の日が不安な中、その日がやっと乗り越えられると、今日で309年11月11日目が乗り越えられたな、と1日の重みが大きすぎて簡単にざっくり309年、とは語れないのです。人手がない中、更にひと手間、とお待たせばかりのそばでも、雨の日も風の日も来てくださっていたお客様が高齢で歩けなくなったり、大雪だったり、コロナ禍だったり、、、と店頭にお越し頂けなくなった方々に、通常の乾麺では無く、店頭の手打の蕎麦を当店のような大きな大きな茹で釜が無くてもご自宅の鍋で失敗なく簡単に召し上がって頂く事は出来ないか、と当店のそばの再現に関しての試行錯誤が始まりました。機械打ちと違って手打ちの生蕎麦は大きな茹で釜でそっと少量でないと茹でられなく、日をまたいでお渡しをする事等を考えると、今の最新の技術を使ったとしたら乾麺ならどのご家庭でも当店の蕎麦の再現を失敗無く茹でられる、と言う事に行きつきました。二年寝かせた利尻昆布でとった出汁の再現は顆粒では塩味が勝って台無しになり、309年継ぎ足し続けてきた唯一無二のかえしの再現も濃縮つゆとしての瓶でしかできませんでした。今日は海外産が当たり前のつなぎ小麦も宮家御用達、延暦寺御用達、の名に失礼の無いよう、かなり大変ではありましたが小麦さえも国内製造だけではなく国産の小麦のみに拘り、そば粉も小麦もすべて国内製造の国産に致しました。江戸時代のそばの文化継承であることが大事なので勿論二八のそばに拘りました。屋号「手打蕎麦鶴㐂」の乾麺を出すにあたりパッケージに関しては延暦寺の書も書かれた秀蓮先生に屋号を書いて頂く事から始まりました。化粧箱や包装も「おもたせの品」に失礼無いよう、日本らしさに拘りました。
「手打蕎麦鶴㐂」は「鶴屋喜八そば」を喜八の名のごとく、この喜びを末広がりに皆様にお届けいたします
310年目に完成した「三百十年 手打ち鶴屋 喜八そば」。職人の技と最新の技術で六年掛けた縁起物の逸品をお歳暮・年越しそばとして大切な方へ
手打蕎麦鶴㐂(ネットショップ)一店舗のみでの販売です

